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舞台『在庫に限りはありますが』

<加藤拓也脚本・演出/劇団た組公演>

【2019年8月 NHKBSプレミアムシアターで鑑賞】

これは、現代の若者に見られがちな「コミュニケーションが上手くとれない」という実態 をエンターテインメントとしてうまく表現した作品である。

この作品の主人公の男性である若いレストラン経営者は、10年以上付き合い、しかも主人公が初体験の相手という女性と結婚してレストランの経営を始める。しかし、その後いつの間にか、他人に見られているとモノを食べるという行為ができなくなる、という症状を起こす。

主人公は、妻に勧められ精神科で治療を受け、全快する。しかし、妻は、その間に主人公とのセックスを拒否しながらも、向かいに新しくできた人気レストラン店のオーナーシェフと浮気する。そのことを知った主人公は怒りを爆発させ、妻に暴力を振るう。結果、主人公は妻に鼻を折るような(言葉の説明はないが、包帯で示される)怪我をさせてしまい、二人は離婚に至る。

妻が浮気をした理由というのが、主人公の男性としかセックスをしたことがない、というものだ。妻は、主人公が他人に見られているとモノが食べられないせいで、彼と長い間一緒に食事をすることができない状態が続いていた。その間に、彼との愛情生活がこれでいいのかと疑問を持ち、それが発展して、彼とのセックスしか知らないということが、果たしてほんとうに幸せなのか?と思うようになり、浮気に至るのである。

おもしろいのは、劇団た組のHPのあらすじによると、妻が初体験の相手と結婚できたことを「理想の結婚」として描いていることである。

私は、昭和30年代の生まれであるが、その私ですら、「女は初体験の相手と結婚することが理想」と思ったことなど一度もない。加藤氏のような若い世代が、このような保守的な考え方(もちろんアンチテーゼではあるが)をテーマの中に盛り込むこと自体、私には驚きであった。私には子どもがいないので、若い世代の考え方に直接接する機会があまりなかったが、私にですら「過去の遺物」と思えるような考え方に縛られてもいるところが今の若い世代にはあるのだと思うと、彼らの世界はさぞや窮屈であろう、と想像できるのである。

そして、その窮屈さの原因は、「根拠も何もない幸せの定義」に起因する。この芝居で言えば「初体験の相手と結婚できる女は幸せ」というような。

この芝居には、対立項として、もう一組のカップルが登場する。主人公の店でバイトをしている女子大生とその恋人である。女子大生は、恋人が「金が欲しい」と言えばすんなり渡す。見ている側からすれば、女子大生は騙されているのではないか、と思わせ。二人の関係はとても危うく見える。しかし、芝居の最後には、恋人は女子大生にお金を返すし、仕事も始め、二入の関係は円満で終わる。

この二人の設定はとても唐突で、芝居に挿入するエピソードとして成功しているとは思えない。ただ、「金を要求する男との関係は、騙されているのだ」というステレオタイプな考え方を覆すエピソードであり、これを挿入した加藤氏の意図は、そこにあったと思われる。

つまり、「理想の関係」のステレオタイプとして肯定的な面を表現するカップルと否定的な面を表現するカップルの二つを対比させ、観客に問題提起しているのである。

この芝居がそれだけで終わらず、なぜ、私が若者のコミュニケーションの問題を扱っていると考えるのか。その理由は二つある。

一つは、人肉喰いのエピソードが盛り込まれていることである。主人公の店に訪れた人気レストラン店のオーナーシェフが、「人肉は美味しいらしい。食べると、みんなハマるらしい」という話題を提示する。これが、ちょっとしたスリリングな効果を芝居にもたらす。そしてそのままラストまで、この人肉喰いについて芝居の中で否定されることはない。

人間はなぜ、共食いをしないのか。それは、ペットである犬や猫の肉を食べないことからもわかるように、そこに「愛」があるからである。愛する対象を人間は食べようとはしないし、食べたいとも思わない(「食べちゃいたいほど可愛い」とか「食べちゃいたいほど愛している」というのは、あくまでも愛するがゆえに相手と一体化したい、という願望の現れである)。芝居の中で人肉喰いがあたかも肯定されたかのように終わるのは、加藤氏自身に他人に対する、つまり人類愛のような人間に対する「普遍的な愛」があるのかどうか、私は疑問を感じるのである。

もう一つ、ラストで、店を出て引っ越すためにトラックを運転する主人公は、運転を誤り店にトラックを突っ込ませてしまう。主人公は久しぶりの運転だという設定にはなっている。私には、これは、主人公が言葉で上手く元妻への多大なる愛情(つまり、一時的にカッとなって暴力を振るったものの、まだ元妻を愛しているということ)を示せないので、結局戻ってくる、それもトラックごと突っ込むというパワー全開の方法でその愛情の大きさを示しつつ戻ってくる、ということを表現しているような気がしたのである。

つまりこれらは、若者が「普遍的な人類愛」の欠如、つまり他人に対する愛情を「素直に」、あるいは今まで人々がしてきたようにごく「普通に」感じることができない、ということと、円滑なコミュニケーションの表現ができないという二つの問題を提示して見せている。

そこで、私はこの芝居を、窮屈なステレオタイプの価値観に縛られた世界観の中で窒息寸前になっている現代の若者が「他人と人間関係をどのように結べばいいのかわからないという迷い」を如実に描いているのではないか、と捉えたのである。

それは「他人とは何者なのか」「人間とはどういう存在なのか」というところにまで発展する問題を内在している。

ただ、このことを加藤氏自身が意識して表現しているかどうかはわからない。

なぜなら、加藤氏本人によると、他人が見ているとモノが食べられないという症状は、自分自身のものであったという。そして、彼は自分の作品を、自分と同じような感覚を持っている人のために、そういう人々と共有するために、作品を作っていると話しているからである。私はこの作品をNHKの劇場中継の録画で見た。その時、脚本・演出の加藤拓也氏本人がこの作品を作ったきっかけや意図について語るインタビューでこう語っていたのだ。しかし、公共放送であるNHKが、この作品を劇場中継として取り上げる価値があると判断した理由は、こうした現代の若者の心に内在する問題を演劇として巧みに表現した芝居である

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