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未熟な脚本〜舞台『静電気の夜vol.7』より『おやゆび姫』(電光石火一発座による)について〜

いただいたパンフレットに『おやゆび姫』の物語への劇作家の方の様々な疑問が書いてあった。

しかし!
そこが脚本を書く時の出発点になってはマズイのである。

作家(演劇もドラマも小説も)は、その疑問が、自分の肉体を通してその心の中のどこと結びつくものなのか、ちゃんと掘り下げる必要がある。自分の心の中にある痛みなり、怒りなり、悲しみ等の感情を引き起こしたのが、その疑問なのだ。その疑問がなぜ自分の〇〇という感情を引き起こすのか、その回答を自分で捕まえに行かなくてはならない。それが、作品を作るためのスタートラインに立つ作業である。

作家がそういう作業をしていないから、この芝居は、「万引きの男が床に万引きしたお菓子を散らし、そして、そのお菓子を『僕のものではありませんから」と車椅子とその付き添いの女性に渡して去った」という芝居のラストと全く同じ意味内容の芝居に仕上がっている。

つまり、この芝居で観客がした演劇体験は、作家の様々な思考=「万引きしたたくさんのお菓子」=「『借り物』の思考」を、「私のものではありません」と観客は渡された、というものなのである。

おそらく、作家はこの作家自身の思考内容と書き上げた脚本の内容の見事なシンクロに、気づいておられないと思う。無意識のうちに、今回の作品における作家の思考内容の本質が出てしまった、という、それはそれで素晴らしいことではある。

しかし、私はもっと期待したい。
この読書会という設定は、非常に演劇的で素晴らしい発想だと思う。

ただ、なぜ、最初にやってきた女性の名前が台本に書かれていたのか?という謎は、解かれないまま芝居は終わってしまうし、就活の男性は、やけに偽悪的に描かれているのはパターンだし、そもそも、最初にやってきた女性が、知的障害を持った弟の介護に疲れることがあるのは、人の日常として充分あり得ることであり、一日くらい休みたいと思うことが、弟から逃げたいということに直結するのだろうか?そういう子どもさんや、兄弟姉妹を持った方のお話を、作家は直に聞いたことがあるのだろうか?ただ、頭の中だけで、ゲームのように考えただけの物語ではないのか?

この作品の全ての問題点はそこに集約される。
頭の中だけの思考のゲームである、という点だ。
作家の熱い血や、切られれば痛い肉から発した心の叫びを作品にしているのではない、という点だ。

もう一度言う。

作家が感じた疑問が、自分の傷付けられたら痛みを感じる心の部分の、どこと結びついているのか、それを探るのが、作品作りのスタート地点である。
そのことをまず、理解し、実行されんことを望むものである。

役者さん達の演技は素晴らしかったし、また、これだけ素晴らしい演技を役者さん達につけられる演出力もまた、素晴らしいと思う。それだけに、脚本の作劇法の未熟さ、ひいては、「作品」とは何か?という根源的な作品作りの姿勢が未熟であることが、非常に残念である。

この脚本の問題点は、他にももっとたくさんあるけれど、そんなに一度に申し上げても、きっと消化しきれないと思うので、まずは、最初の第一歩の部分にとどめておいた。

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