ANAGO'S SALON

PROFILEプロフィール

はじめましての方も、はじめましてでない方も。
こんにちは! 長谷川侑紀です。

私は、舞台、それも主に演劇の演出をしています。
演劇の演出といっても、多くの方にとっては馴染みのない仕事かもしれませんね。そこで、自己紹介のページを作りました。お時間のある方、ご一読いただければ幸いです。
なお、今まで作った作品のうち、メインのものはWORKSをご覧ください。

VIEW WORKS過去の作品を見る
プロフィール 主な活動及び作品年表
  • 1.演出とはどんな仕事か

    演出家は、人のことを表現する言葉なので、10人いれば10人みんなやり方が違うと考えてもらっていいです。
    しかし、演出、と言った場合は、大体やることは決まっています。
    その仕事内容は、映画の監督と似ています。映画の監督が、俳優さんに芝居をつけることも「演出」といいます。そのとき、演劇が映画と決定的に違うのは、上演形態です。つまり、演劇はライブであり、三次元の世界として上演する、というところです。演出家は、台本に書かれている言葉によるイメージの世界を、自分の解釈に基づいて、劇場(劇場という建物以外でやることも多々あります)の舞台の上という三次元の世界に、そこにある現実としてフィクション(簡単に言うと、嘘)を構築するのが仕事なのです。
    ただ、コロナ禍で、演劇を記録としての映像ではなく、作品として配信という映像で見せる方法も出てきています。それは、演劇の新しい表現方法として、今後ますますの研究・発展が望まれるところです。

  • 2.そもそも私はどういう経緯で演出家になったのか

    ❶ 私と演劇との出会い

    小学校5年生の時、クラスで毎月お誕生会というのがありました。クラスのメンバーが毎回小グループ分かれて、何か出し物をするのです。私が入るグループは、たいてい短いお芝居をしていました。最初は、私がセリフを考えることが多く(台本と言えるほどのものはありません)、みんなでそれに演技をつけていました。そのうち、メンバーの一人(当時の私の大親友)が、こう言い出したのです。
    「毎回セリフを覚えるのはめんどくさいから、お話の流れだけ決めて、セリフはその場で思いついたことを言うことにしない?」 みんなが賛成し、その芝居は見事に成功しました。恐るべし、小学生の想像力(創造力)。そして、それ以後は、そのやり方になりました。これって、インプロビゼーション(即興)、ですよね?
    そして、同じ頃、私は同居していた叔母(母の末の妹)の本棚で、『じゃじゃ馬ならし』と言う本を見つけて読んでみました。自分はじゃじゃ馬である、という意識があったので、興味を持ったのです。全く意味不明だと思いました。しかし、続けて同じ作家の別の本も読んでみました。『ロミオとジュリエット』です。そう、これが私とシェイクスピアとの運命の出会いでした。私は、バルコニーのシーンで、ジュリエットがロミオに「私の頬は今きっと真っ赤で、それをあなたに見られたら恥ずかしい」みたいな、自分だったらとても恥ずかしくて言えないセリフを、堂々と言っている(言わせている)ことにビックリしました。と同時に、このように人をドキドキワクワクさせる物語を自分も書いてみたい、とも思いました。そう思った私は、さっそく三人姉妹の恋愛物語のお芝居を書こうとペンをとりましたが、すぐに挫折しました。なんのあて(設定や構想)もなく、ただ行き当たりばったりに書き始めただけだったので、当たり前と言えば当たり前ですよね。

    ❷ 表現したい 〜中学生編〜

    その代わり、中学生になると私は漫画を描き始め、ノートに鉛筆で短編を描いては、友達に見せたりしていました。お話を考えるのはとても楽しかったのですが、漫画家にならなかったのは、背景が描けなかったからです。技術的な問題ではなく、イメージが湧かなかったんですね。登場人物がどんな風景の中に生きているのか、というイメージが。ただ、一度だけ、当時読んでいた少女漫画雑誌の応募枠にイラスト部門があり、描いて送ってみました。宇宙空間で地球に向かって手を振っている少年の寂しげな後ろ姿(うまく顔が描けないため)、という表現をしたつもりのイラストでした。すると「メッセージ性がある」という評価で、佳作に入選しました。私はそれで満足して、もう漫画はいいや、と思えました。

    ❸ 表現したい 〜高校生編〜

    ただ、表現したい、という欲求は常にありました。それは燃えるような情熱であり、高校生になって顧問が参加しない生徒だけの部活動という場で、部員のみんなを引っ張っていく原動力になりました。吹奏楽部だったのですが、私は指揮者として、またトレーナー(練習時のリーダー)として遺憾なくその情熱でもって部員と演奏をまとめげ、年に何回かある発表会を成功に導いていきました。それは、先輩達からもいい評価をもらえるできばえであり、部員達も、練習が終わると駅までの道のりを常に一緒に帰る、という仲良しぶりでした。
    ただ、私は一つ決定的な失態を犯しました。その高校には音楽科があり、フルートを専攻していた男子生徒が入部してきたのです。私は彼より音楽的な力が劣っており、演奏の中で、彼の能力を充分に発揮してもらうことができませんでした。彼は私に不満を持ち、最終的には退部してしまったのです。私は、この経験によって、能力のある人材をいかに活かすか、という命題を常に心の中に持つことになりました。

    ❹ 表現したい 〜大学生編〜

    大学生になり、趣味として音楽を続けたかった私は、高校の先輩の紹介で、早稲田の理工学部にあるジャズサークルに入部しました。ジャズといえば、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエバー』というアルバムを高校の同級生が聴かせてくれて、「音がバラバラに聞こえる。これって、音楽なの?」程度の認識しかありませんでしたが、何か惹かれるものはあったのです。
    実は私が東京女子大学に入学した時、高校3年生の終わり頃から興味を持ち始めた比較文学という分野に、新しく専門の教授、それも学会で非常に高い評価を得ていた優秀な教授が赴任されたのです。それは、運命的でとてもラッキーな出会いだったと思うのですが、残念なことに、私はその運を全く活かすことなく卒業することになりました。というのは、当時私は、実家の家計を少しでも助けるために大学の寮に住んでおり、しかもその寮は大学のキャンパス内にあって、一日中同じ敷地の中にいる、ということが私にはとても息苦しかったのです。大学のキャンパスは常に手入れが行き届いていて、非常に美しかったのですが。それで、授業だけは受けるものの、放課後になると勉強は放り出して、早稲田の理工のキャンパスに逃げ込んでは息をついているような感じでした。

    ❺ 表現したい 〜運命の出会い こっちがホンモノ!〜

    大学4年間を、将来何になるとも、また何の展望も考えもなく卒業し、就職からも逃げたような感じで地元名古屋に帰った私は、大学時代に朝日新聞社の雑誌で学生向けの記事を書くバイトをしていたので、その記事を持って営業し、フリーのコピーライターとして仕事をするようになりました。しかし、あまり順調にもいかず、高校や養護学校の産休があると、国語科の教師として働いたりもしていました。
    文章を書くのは好きでしたし、子どもの頃からの得意分野でもあったので、いいコピーライターになろうと真剣に本等で勉強もしました。素敵な作品を描いていると感じたイラストレーターを東京で発掘してきて、アートディレクターも兼ねて広告作品を作り、朝日新聞社主催の朝日広告賞に応募。その結果、準朝日広告賞も受賞しました。しかし、本に書かれているコピーライターの仕事のやり方と、自分が置かれている現実はあまりにも違っていて、私はコピーライターとして生きていく情熱を持てずにいました。受賞は、自分が本で学んだ仕事のやり方を自分なりに忠実に再現した結果でしたが、だからといって現実が変わるわけではありません。若者によくある、理想主義者の挫折、という体験です。
    コピーライターになりたいわけでもなく、教師になりたいわけでもなく、じゃあ、自分は何がやりたいんだ? と悶々とする日々を送る中、ただ一つ貫いていた信念は、企業には勤めない、ということでした。企業に入ると、企業の理念に従って働かなければなりません。私はそれが、嫌だったのです。自分は、自分の理念、自分の信念に従って生きたいと思っていましたし、今もそれは変わっていません。望むと望まざるとに関わらず、結果的に個人を蔑ろにすることになってしまう企業という形態の理念には染まりたくありませんでした。個人が蔑ろになってしまうことを、これが人間の生き方として正常なやり方だとは、どうしても思えませんでした。
    そんな時、教師の同僚だった知人が「東京でおもしろいお芝居やるから、観に行こうよ」と誘ってくれました。それが、現代演劇の神様と言われるピーター・ブルックとの出会いでした。
    そのお芝居は、言ってみれば、1つの箱が山にも川にもなり、家にも火にもなるような、見るものの想像力を掻き立てられる演出でした。演劇の世界では当たり前のことなのですが、演劇を初めて(小学校を卒業した春休みに『森は生きている』を観て以来、初めて)観た私にとってはとても魅力的な世界として目に映り、「私がやりたいことは、これだ!」と直感的に閃きました。
    それは、自分自身のイメージの世界を、現実としてみんなの目の前に立体的に構築し、それでみんなを楽しませたいという、自分が本来持っていた欲求に気がついた瞬間でした。

    ❻ 演劇を学ぶ

    それからは、コピーライターの仕事を続けながら、演劇や演出に関する本を読んだり、さまざまな演劇のワークショップを受けるようになりました。コピーライターで得た収入は、ほとんどそれに消えたと思います。東京や大阪、京都へもワークショップを受けに行ったりしていましたから。実家にいたからこそ、できたことですね。バレエをはじめダンスも好きだったので、ダンスのワークショップにもよく参加していました。
    それが偶然にも、ダンスの先生は日本人がほとんどだったのですが、私が受けたワークショップの演劇の先生は、全員、イギリスから来た方達だったのです。イギリスの王立演劇学校やロイヤルシェイクスピアカンパニーの俳優や演出家、イギリスで活躍している演出家、等々。
    そして、学んだ本も、入門編こそは日本人の著作でしたが、その後スタニスラフスキーの著作に辿り着き、本能的に「私が求めている演技とはこれだ!」と思いました。学術的に正確に読み取れているかどうかはわかりませんが、私なりに俳優の演技について本の内容を消化しました。
    後に、日本演出家協会の招きでロシアの著名な演出家であるセルゲイ・ジェノバチ氏のワークショップを受けた時、十数人いた受講者の中でただ一人、私だけが「君の演出は素晴らしい」という評価を頂きました。その理由の一つには、私の演出の基礎が、イギリスの演劇やスタニスラフスキーからの学びでできていたからかもしれません。加えて、ちょうどそのワークショップの前年に、8ヶ月ほどロンドンに滞在し、ロンドンで上演されるさまざまな国の演劇を見て学習していたことも関係していると思います。
    また、西洋の舞台芸術との出会いとして忘れてならないのは、ズラトゥコ・ミックリッチ先生と黒葛和子先生ご夫妻です。お二人はそれぞれ、今は亡き東ヨーロッパにあったユーゴスラビアの国立劇場で将来を嘱望されたバレエの演出家であり、活躍するソリストでいらっしゃいました。しかし、内紛で国を出ることになり、和子先生の祖国である日本に逃げてこられたのです。そして私の住む地元に近いところにバレエスタジオを開かれたのでした。バレエが大好きだった私は、外国人の先生が本場のバレエを教えてくださるということで、喜び勇んでお二人のスタジオを訪ね、レッスンに励むようになりました。その発表会では、本格的な幕ものの舞台を先生たちは作られ、私はそこで何度か俳優として出演する機会を得ました。舞台でどのように自分を観客にアピールしたり、魅せたりするか、という基礎的な動きから、舞台芸術とはそもそも何のためにあるのか、という大きな命題まで、私はズラトゥコ先生から単なる技術としてではなく、舞台に込める魂の在り方のようなものを学びました。大変悲しいことに、ズラトゥコ先生は、今年(2022年)の春に急逝されましたが、先生から学んだ私をはじめ多くの弟子たちが、元気に先生の精神を受け継いでバレエに(私の場合は演劇ですが)情熱を傾けています。先生の精神、そう、それは「舞台は楽しむもの!」ということです。

    ❼ 演出家としての道を歩み出す 〜しかし!〜

    そうこうしているうちに、母と父が相次いで亡くなり、妹と二人残された時、妹が私に「お姉ちゃん、もう好きなことやったら?」と言ってくれました。実は、母は私が演劇の道に進むことには反対していたのです。立場的にも経済的にも不安定な職業なので支えきれない、というのが母の言い分でした。しかし、妹は「お姉ちゃんは表現する人だから」と、その後亡くなるまで私のことを信じて応援してくれました。
    話を戻すと、私は、妹が賛成してくれたので「我が意を得たり」とばかりに、演劇の演出家としてデビューする準備を始めました。
    俳優は、自分で名古屋のあちこちの劇場へ公演を見に行って、この人ならできそうだ、という人を選んで直にお願いする形で集まってもらいました。ただ、当時の私にはスタッフの知り合いが全くなく、知り合いの演出家の方に紹介していただくままにスタッフを揃えたところ、その演出家の方が名古屋ではご高名な方だったためもあって、集まったスタッフのギャラが高いのなんの。おそらく、当時の私がお願いするのにふさわしかったであろうスタッフのギャラと比べたら、3倍から10倍くらい高かったと思います。それで、自然と公演自体にかかる費用も跳ね上がり、父と母から受け継いだお金を全て放出することになっただけでなく、借金までも抱えることになってしまいました。 演劇は、資金がなければできません。
    そのため、すっかり自分の公演をする気を失くした私は、その後は、知り合いの公演のお手伝いをしに東京に行ったり、名古屋の若い劇団の演出をしたりと、もっぱら頼まれ仕事ばかりをやるようになりました。
    当時、甲状腺の病気を患っていたので、体力的にも疲れやすく、とても生活費に加えて演劇のための資金を稼ぐことなどできませんでした。現在、甲状腺の病気は完治していますが、それでも、生活費以上に稼ぐほどの体力を私は持ち合わせておらず、資金集めについては、常に課題になります。

  • 3.今日までの演出家としての道のり

    ❶ ANETとの出会い 〜『椿説曾根崎心中夢幻譚』

    そんなふうに燻っていた私のところへ、突然「脚本を書きませんか?」というお話が舞い込んできました。それは、知人の紹介で入会したANET(愛知芸術文化協会:愛知県の芸術を生業としている方々の私的な集まり)が、名古屋市芸術創造センターと共催で、新しく名古屋で初めての大規模なコラボレーション作品を作る、というお話でした。近松門左衛門の『曾根崎心中』を、能・日本舞踊・オーケストラ・和楽器各種、という和洋を組み合わせた参加者で行い、脚本はなるべく新人を起用したい、ということで私にお声がかかったのです。入会した時に、ANETの夏の集いの出し物で、源氏物語をアレンジした小品の脚本を書いて演出したのが、評価されたようでした。
    大いにやる気を鼓舞された私は、実際に大阪へ出向き、図書館で地図を調べて、曾根崎心中の舞台となった場所を歩き回り、当時のイメージを膨らませつつ、自分の体に曾根崎心中の魂みたいなものを染み込ませ(たつもりになって)、近松の原作を今回の舞台用にアレンジして書き直しました。
    また、私にとって非常にラッキーだったのは、この芝居の総監督の方が作曲と音楽の指揮者も兼ねておられ、オーケストラと和楽器のコラボの練習にかかりきりになってしまったために、芝居の演出の方は、私がほとんど任されたということでした。私は、ここでも思う存分力を発揮し、また、参加されたメンバーがANETの力によってその道の一流の方ばかりであったこともあり、素晴らしい舞台になりました。
    私がどんな芝居を作るか、全く知らずに見にきてくれた知人達は、口々に「こんなすごい舞台が作れるんだ」と感激というよりむしろ驚きの言葉を残して帰って行きました。もちろん、私一人の力ではありません。お芝居はキャスト・スタッフが力を合わせた総合芸術であり、皆の気持ちが一つになったからこその、素晴らしい舞台だったといえます。
    この舞台作りを経験した私の心に、再び「自分の世界を表現したい!」という情熱が蘇りました。そこに、再びANETが関係した次回公演の企画がもたらされたのです。

    ❷ シェイクスピア原作『阿吽―ハムレット奇譚―』を上演 〜しかし、またもや悲劇が襲う!〜

    今回は、企画自体はANETと名古屋市文化振興事業団の共催でしたが、資金は自分で調達しなければなりせんでした。私は、やりたいものをやろう、と意気込み、それだったらシェイクスピアだ、と決めたのは良かったし、結果的には素晴らしい作品になったのですが、いかんせん、今度はコロナ禍という邪魔が入りました。
    資金集めという仕事があったので、私はプロデュースにまわり、演出と脚本は若い実力のある方を選んで共同作業をすることにしました。俳優さんも素晴らしい方達が集まり、ほんとうにコロナ禍にめげず、みんなが死力を尽くして作り上げた作品になりました。しかし、最終的に無観客公演となり、DVD販売と有料配信をして助成金もいただきましたが、費用の3分の2は未払い分として私が負担しなければならない結果となりました。資金を助けてくださった方々もあったおかげで、今回は借金という名目にはなりませんでしたが、支払いを利息もつけずに待ってくださったスタッフの皆さんには、ほんとうに感謝の言葉しかありません。

    ❸ コロナ禍の応援ムービーを作る

    未払い分を抱えたままでしたが、再び名古屋市文化振興事業団が、コロナ禍のみんなに向けた応援歌を作るのでANETの会員にそれを題材としたショートフィルムを作って欲しい、という企画を立ち上げました。これは予算が出るというので、私もプランを出したところ、そのプランが通り、初めて映像作品に取り組みました。
    これもまた、どうせ作るならやりたいことやろう、といつもの調子で、単なる撮影だけの映像作品ではなく、CGが予算が足りなくて取り入れられないなら、コラージュを作るいい作家がいるから参加してもらおうと決めました。作品世界を表現するにあたり、それにふさわしい何かインパクトのある要素、新しい試みを取り入れる挑戦をした結果、出来上がった10分ほどのシュートフィルム『THE FIRST STEP』は、当時のメンバーの最高の力を結集した素晴らしい作品になりました。参加された時はまだ無名であったコラージュ作家のache.さんは、その後知名度がどんどん上がって、今では制作が追いつかないほど仕事の依頼が来るようになり、大活躍をされています。

    ❹ これからの私

    『阿吽―ハムレット奇譚ー』の無観客公演から2年経った2022年の今年、ギャラの未払い分を全て完済しました。黙って待っていてくださったスタッフの方々には、感謝の心を込めて最初の取り決めのギャラより少しずつ上乗せしてお支払いさせていただきました。

    さて、次なる目標は?
    私が小学校に入学した時、父が世界の民話を集めた全集を買ってきてくれました。そこに集められていた民族性豊かなお話はどれもおもしろく、子どもながらに、日本以外にも国はたくさんあって、それぞれが民族的特徴を持って生きているんだということを強く感じました。
    そのせいでしょうか、私には、自分の劇団を持つのではなく、いろんな国を回って、その土地土地で役者を集め、そこで生活している人たちが喜ぶような芝居を作って、みんなで一緒に楽しめたらいいな、という夢があります。
    そうやって世界を回り、民族は違っても、人々が大切にする共通の価値観はあるのか、あるなら、それは何かを探りたい。
    もしかしたら、将来国境は無くなるかもしれませんが、民族は残ると思っています。なぜなら、自分のアイデンティティの源、つまり自分はどういう出自であるかを知っていたいという切なる心の欲求が、人間なら誰にでもあるからです。
    地球という一つの星の上で、その多様な民族が平和的に共存するためには、その共通な価値観を知ることが必要だと考えます。人々がそれを共通認識として持つようになれば、何か争いが起こった時の拠り所にすることができます。
    たとえば「そんなのは『愛』に決まっている」と思われるかもしれませんが、では、その愛をどのように表現するかでは、民族によって違いがあります。どのような価値観だからそのように表現するのか、というところまで深く探る必要があります。そのためには、現地で実際に肌で感じることが大切だと思っています。
    価値観は見えないものです。見えないものは、感じ、そしてそれを言葉にして初めて人々と共有することができるようになります。
    演劇は、見えないものを表現する手段であり、人々が大切にしている価値観を目に見えるものとして、それも実際に人間の言葉と行為によって表すことができる芸術です。そこに暮らす人々の価値観を明らかにし、世界中の人々と共有するには、最も適していると考えています。そのような魅力を持つ舞台芸術に関われることを、心から嬉しく、またハッピーだと思っています。

    今後も、地球の将来のハッピーをも見据えつつ、皆さんを勇気づけ、ハッピーになれるような作品を作り続けていきたいと思っております。

  • 4.私はどんな世界を目指し、そのためにどんな作品を作っているのか

    世界がこんなふうになったらみんなが幸せに暮らせるんじゃないかな、と私が考えている社会は「共生社会」です。
    「共生」とは、お互いがそれぞれの違いを認め合い、リスペクトを持って生きる社会です。
    そもそも地球は一つしかなく(将来的に宇宙へ飛び出す可能性がないとは言えませんが)、みんなで肩を寄せ合って共存してゆくほかありません。その時に、みんなが平和的に共存する方法、それが「共生」なのだと考えます。

    また、世界は今、大きく変わろうとしています。
    何がどうかわろうとしているのか。
    それは、個人一人一人、つまりあなたや私自身が主人公になる社会になりつつある、ということです。
    今までの世の中は、偉大な思想家が出てきて「これからはこういう考え方・生き方をするといい」と自分の説を人々に流し、人々はその他大勢としてそれを受け入れて生きる、というものでした。
    しかし、今後は、人々はそのように誰かの説を自分の生き方に取り入れるのではなく、自らが自らの経験や知識や考えに基づいて、自分の生き方を決める時代になります。それは、フランスの社会人類学者であり民俗学者であるレヴィ=ストロースが自らの著書『野生の時代』のなかで語った「ブリコラージュ」という考え方の応用で、知のブリコラージュ、と私は捉えています。ブリコラージュは、今ある手持ちの材料だけを使って、結果的に新しいものを作る、という人間が古代に実践していた生き方の知恵です。つまり、回り回って、人間の歴史は、その文明が生まれ、成熟し、退廃して終焉を迎えるところまで来ており、文明を生み出す前の人間の姿に戻る時期が来ている、とも考えられるのです。
    現代人は、豊かな知識と技術(AIという人工知能までも)を手に入れました。
    何のために? そう、自分が幸せになるために、です。
    今こそ、社会の大きな力に蔑ろにされていた自分自身を幸せにするための行動を始める時なのです。

    これら二つの「共生」と「ブリコラージュ」の実践のために欠かせないのが「想像力」だと、私は考えています。
    「共生」するためのお互いへのリスペクトは、相手の気持ちを思いやるところから始まります。思いやりは、相手の気持ちをイメージ(想像)することによって生まれます。その時に必要なのが、豊かな想像力です。
    また、「ブリコラージュ」においても、今自分が持っている経験や知識、考え方をどう組み合わせるかを考えるためには、イメージする力、つまり、ここでも想像力が必要です。
    同時に、世の中に生み出され、また世界を変えてきた製品群のすべてが、人間の想像力から生まれてきたことは、誰の目にも明らかな事実ですよね。想像力がなかったら、文明も生まれなかったし、世の中が今のように進化することもなかったでしょう。

    優れた芸術は、あなたの中に眠っている想像力を呼び覚まし、刺激する力を持っています。
    私は、人々が幸せになる力として、想像力は絶対に欠かせないものであり、豊かな想像力を育むためには、優れた芸術が必要だと考えています。
    私が作る作品群は、そうした想像力を豊かにする力を秘めている、あるいは持っているものにしたい。私はそう、考えています。

    長い長いプロフィールを最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
    こんなふうに生きてきた私の演劇活動に興味を持ってくださり、ご意見やご感想、あるいは何かを一緒にやってみたい、と思われた方は、ぜひ下のコンタクトからご連絡ください!資金の援助もありがたいです!

    今、私がこんな風に自分のありたい自分として活動できていることに心から感謝すると共に、どうぞ皆さんもそうあれるよう、心から応援しています。たった1度きりの自分の人生を、ご一緒に思いっきり楽しみましょう!
    ではでは、良きご縁が生まれますように!

2016年(平成28年) 12月
芸術創造センター連携企画公演
近松門左衛門原作 長谷川侑紀上演台本 山本雅士演出
コラボレーション作品『日本人のDNA 椿説曾根崎心中夢幻譚』
芸術創造センター(愛知県名古屋市)
日本舞踊、能、オーケストラ、和楽器(筝・尺八・三味線及び唄・薩摩琵琶)が集う名古屋初の大規模なコラボレーション作品
2017年(平成29年) 8月30日〜10月12日
可児市文化創造センターalaにて
ala collection vol.10『坂の上の家』公演に演出部の研修生として参加
2018年(平成30年) 4月
地歌舞伎 七賀十郎一座(愛知県丹羽郡扶桑町南山名)に参加

6月
地歌舞伎『浮気婿』七賀十郎一座 扶桑公民館(愛知県丹羽郡扶桑)

7月〜8月
“Building Hope When Things Are Falling Apart”(「絶望の中で希望をいかに創り上げるか」)の講座に招待され受講
講師:Dan Freidman(オンライン授業)

9月21日〜23日
“Performance The Wolrd(略してPTW:邦訳は『パフォーマンスで世界を変えよう』主催ロイス・ホルツマン女史 in NY)”の学会に参加


2019年度開催のANET×名古屋市文化振興事業団主催「文化 小劇場巡回シリーズ」に自身の企画が採用され、『阿吽―ハムレット奇譚―』と題して、2019年度3月7日(土)(於:東文化小劇場)公演に向けて準備を始める
2019年(平成31年・令和元年) 『阿吽―ハムレット奇譚―』9月オーディション開催・8月より稽古開始
2020年(令和2年) 3月7日(土)
『阿吽―ハムレット奇譚―』公演がコロナ禍によりあ名古屋市文化振興事業団の通達で10月2日(金)に延期となる。さらに、愛知県のコロナ禍状況を鑑み、無観客公演とし、映像作品として有料配信及びDVD販売に変更

8月24日(月)〜
釜山マル国際音楽祭(Busan Maru International Music Festival)にて『椿説曾根崎心中夢幻譚』の上演DVDが上映

10月2日(金)
俳優のための基礎的な技術を身につけるメソッドとして、『舞台俳優になりたい人のための伝わる表現力を養う14の基礎レッスン』(電子書籍:Amazonにて販売中)を初出版
2021年(令和3年) 2月
ショートフィルム作品『THE FIRST STEP』を初監督(名古屋市文化振興事業団「きみの明日」プロジェクト参加作品)
2022年(令和4年) 12月〜
シナリオ・センター(東京都港区北青山)にて、映画やTVドラマ用の脚本の書き方を学び始める
2023年(令和5年) 3月
Lois Holzman(in NYC:専門はA Postmodern Culture of the Mind )による『A Cultural-Performatory Approach to Understanding Human Life and Performing Psychology』の講座を修了(ZOOMによる)

4月〜10月
某特別支援学校の体育祭の演目に、生徒さん達の可能性を広げる手段として、ダンスを提案。養護学校での教師経験あっての発案である。振付家も知的障害児にダンスを教えた経験のある方を、知人によりご紹介できた。恐らく知的障害児教育の現場では初めての試みであったが、体育祭当日のダンス公演は、校長先生の優れたリーダーシップの元、先生方の熱心なご指導もあって大盛況となり、参加した児童・生徒さん達はもちろん、保護者の皆さんにもご満足いただけた。

CONTACTお仕事のご依頼・お問い合わせ