ズバリ、それはカトリーナの継母、ヴァン・タッセル夫人が安心とリラックスを得た瞬間、を表しています。そして、さらにズバリ言うと、ヴァン・タッセル夫人は、この時首なし騎士から性的な愛撫を受けています。死人の木から突き出た夫人の手だけの演技は、首なし騎士の愛撫を受け入れ、復讐のために張り詰めていた緊張が緩んだ瞬間を表現しているのです。
さて、ここで質問です。
夫人は、なぜ首なし騎士の愛撫を受け入れたのでしょうか?
そもそも、首なし騎士が夫人を愛撫するのは、夫人を女として弄(もてあそ)んでいるからでしょうか?
男に弄(もてあそ)ばれて、果たして女はその男の愛撫を受け入れるものでしょうか?
その内容について、以下に解釈します。
夫人は子どもの頃に同じ村に住んでいたギャレットに家を奪われ、両親の死後妹と二人きりになり、森でひっそりと暮らしていました。しかし、ある日戦犯として追われていた騎士と出会い、彼を利用して復讐する人生を選びます。
戦犯として追われていた騎士は、少女であった姉妹二人と遭遇した時に「静かにして」と頼みますが、姉、後にヴァン・タッセル夫人となる少女は持っていた木の枝をポキリと折って音を立て、追手に騎士の居場所を知らせます。そのため、騎士は追手に捕まり殺されてしまいます。
実は、夫人はこの騎士と出会った時に、彼の死後の頭蓋骨を利用してギャレットに復讐することを決めたのです。だから、騎士に「静かにして」と頼まれても、わざと持っていた小枝を折って音を立て、追手に騎士の居場所を知らせたのです。頭蓋骨を利用した復讐の方法は、彼女の母親が魔術を使えたという設定から、何らかの方法でその知識を得たと想像できます。
一方、騎士は、少女であった夫人に出会った瞬間に、おそらく彼女に愛を感じたのです。その理由は、人殺しを好むはずの騎士が、妹が逃げ出した後、一人残った姉である少女を殺さなかったからです。そして「静かにして」と自分を匿(かくま)ってくれるよう、姉である夫人に頼みますが、騎士の愛は裏切られて殺されてしまい、かつ夫人の復讐の道具にされてしまいます。しかし、最終的に自分の首を取り戻した騎士は、夫人に仕返しをしません。真実の愛は、相手の過ちを許し、その全てをありのままに受け入れるものだからです。そして、夫人を自分の居場所である死人の木に連れ去り、愛する彼女を自分のものにするのです。
夫人は、騎士の真実の愛のこもった愛撫を受けて、騎士の自分に対する愛が本物であることを感じ、彼の愛を受け入れたのです。
(余談ですが、これはある意味、男性が女性を愛した時の、理想の愛の受け入れられ方かもしれませんね。理想の、と言ったのは、実際、現実ではこうはいかないことも多々あるからです)
さて、実はここにもう一つ、人間の心理を描く時の不思議が隠されています。
少女であった夫人は、騎士を復讐の道具として利用することを決意する訳ですが、実は、裏切ったように見えて、夫人もここで騎士を愛の相手として選んでいるのです。
「利用した」というと非常に自分勝手に聞こえるかもしれませんが、「自分が利用できる相手」とは「自分の利益になる相手」として、他の人とは明確に区別しています。それは、本人は無意識でしょうが、一つの肯定的な選択です。相手を自分にとって否定的な存在、つまり付き合いたくない存在としてではなく、「利用する」という手段を通して、相手を「付き合いたい存在」として選んでいるのです。少女であった夫人も、同様です。
映画やドラマにおける愛、あるいは恋愛の物語は、その登場人物が意識的にしろ無意識的にしろ、相手を選んだ瞬間に始まります。
本筋では、映画の始まりの方でクリスチーナ・リッチ演じるカトリーナが、家に訪れたジョニー・デップ演じるイカボットにキスをし、イカボットもそれを受け入れる、というシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』以来の伝統的な描き方で、お互いに相手を愛の対象として選ぶ様子が描かれていますね。
いい映画やいいドラマの表現は、人間性の深い洞察に基づいているのですね!